morinoat_39
5/16

廊下の社会科コーナー。飯島さんの、私物の本もたくさん並んでいるとか。「みんなに読んでもらいたいと思った作品を置いています。社会学を学ぶきっかけになった、沖縄問題に触れる本もありますよ」。時に、そのサポートをすることも大切にしています。例えば、先日は「着物が着てみたい!」という声があがったので、着付けの先生に来ていただき、みんなで着付け体験を楽しみました。 傷ついているのなら、まずゆっくり休み、そしてだんだんと元気になって、興味を抱いたものがあれば、それを支えてあげる。そんな感じの場所です。 私もこの中学校の卒業生です。小学校の頃に、だんだん学校に行けなくなりました。不登校にはいろいろな理由や環境の要因がありますが、具体的な理由は当事者もうまく言えないことが多いんです。私がこの学校にいた頃も、毎日は学校に来ていませんでした。でも自分のペースを大事にしてくれるこの場所はとてもありがたかったし、ここで出会った仲間たちと話すのは楽しかった。「人と関わることは楽しいんだな」と思わせてくれる場所でした。 その思いは、進学した自由の森の高校でさらに広がり、やがて学校に対してストレスを感じることもなくなりました。それがなぜなのか、よく分からないんですよね。いい意味で誰もがバラバラの学校だったからでしょうか。「ここは安心して自分でいられる場なんだ」と、思えたのかもしれません。 不登校って「不」なんて字も使いますし、ネガティブに捉えられてしまいがちですよね。大きな本屋に行けば、まるで病気のように、「不登校は治すべき」「学校に行けるようになる」といったノリの書籍がズラリと並んでいます。 でも、大きなプレッシャーを前にしたとき、ちゃんと一歩引いて、「自分」でいられる環境を整えることはネガティブなことではありません。一人ひとりにとって、のちのち「あのとき、ちゃんと休んでよかった」と思える時間になったらいいと思うんです。 もちろん一歩先のことを考える時間も大切です。でもそれが自分らしさを損なう時間であってはならない。 「多少強引にでも先のことを考えた方が本人のためにいいんだ」という旨の主張をする、責任感がやけに強い教育者と出会うこともありますが、私たちはそういう姿勢を取りません。 歴史や社会のことを、知ったり考えたりすることがなぜ必要か——。 そう問われたとき、私は「知らなかった事実に触れて、自分ではない誰かの視点に立つことは、少しずつ優しくなることにつながっているんじゃないか」と話しました。 「優しさ」って言葉は、そんなに単純ではないんですけどね。ありのままを受け入れることだけが優しさではないし、厳しくすることが優しさかのように言う人もいますから、難しい言葉です。 でも、前述のようなやりとりの後に、「優しい人になりたいと思った」と卒業前に書いてくれた生徒がいたんです。返事には、「君がそんな思いを持った時点で、もう優しさは生まれていると思うよ」と書きました。 誰がなんと言おうと、他者のことを考えたり、向き合おうとする優しさは、誰にも止められませんからね。55返事には「君がそんな思いを持った時点で、もう優しさは生まれていると思うよ」と書きました。安心できる場だから関わり合いが楽しい「今」を大切にすることが自分を大切にすること「優しさ」の質

元のページ  ../index.html#5

このブックを見る