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教員が「学びたい」と思っている子の伴走者でありたいと願っていることは、この学校の変わらないことのひとつ。(菅間)菅> 私には、2人の子どもがいるのですが、上の子は卒業生、下の子は現在在籍中です。保護者視点で評価表を見ると、何に一生懸命だったかが分かりますし、それを教員がどう受け止めてくれたのかも伝わってくる。上の子は、英語の先生の書いたコメントが刺さったようで「英語を勉強してみたくなった」と言って、卒業後国際教育学部に進学しました。その一連のいきさつを見ていると、私が評価表に書くコメントも、生徒一人ひとりの将来に影響するかもしれないと思うと、責任があるなぁってドキドキしちゃいます。99※1自己評価表:正式には「学習の記録」。前、後期の期末に各教科で学んだことを生徒一人ひとりがまとめ、授業の中で見い出したことや疑問を、自身の言葉で振り返る機会。教員はその考えや思いを受け止め、言葉で応える。学びの足跡を辿るために、あとから読み返す生徒も多い。菅菅間> 僕は授業やクラスで「自由に意見を言ってもいいし、言わなくてもいいよ」と言うんです。それをのちに「あれはトラップだと思ってた」という生徒がいました。その子は中学まで意欲・関心・態度を点数化して評価する学校に行っていたので、「そんなこと言っても、意見の言い方で評価されるんでしょ」と思っていたみたいなんですね。器用な子なので、教員の望むような意見を言って、評価されるのは簡単だと思っていたそうなんですけど、そう思っていた期間が「もったいなかった」と言っていました。そういう点数序列や管理される教育を受けてきた生の身体を受け入れるというか、認めることが必要だと思っていて、それが“学べる身体”になることにもつながると思っています。体育の授業だけど、自分で自分を認めてあげられる時間になってほしい。それがほかの教科の授業で自分の言葉で発言できるようになったり、安心と自信につながったりしていったらいいなと。菅間> そうですね。そういう状況の中で、この学校の変わらないことのひとつに、教員が生徒に共感的に、「学びたい」と思っている子の伴走者でありたいと願っていることがあります。テストや内申書などの装置を使わず、一人ひとりの生徒に人間として向き合う。一人ひとりの成長に向き合い、一緒に学びの場をつくるという感覚は、教員の間で共有されています。「あなたの存在と成長に関心を持っていますよ」ということを伝える手段のひとつが自己評価表(※1)ですが、これも創立時から変わっていない特徴です。生徒が自身の取り組みを自己評価し、それに対して教員がコメントを返すやり方ですが、手紙のやり取りにも似ていて、大人になっても折に触れて読み返すという卒業生の声も耳にします。それは嬉しいですね。徒たちが、教員を信頼できるようになる、リハビリのような時間は昔より長くなっているかもしれません。でも、そういう大人への信頼は学ぶ力の基礎になると思っています。教員も生徒も、誰もがひとりの個人として関わりあう文化があるところは、ずっと変わらないですね。菅間> 点数評価のテストじゃ、なかなかあとで読み返したりはしませんよね。学校としてはそのためにやっている取り組みではありませんが、自己肯定感を育てることにもつながる。自己評価をするためには、まず自分自身を受け入れる必要がありますから、自分と対面する契機にもなると思います。菅> 私自身は、もっといろいろできるはずなのに、遠慮しているような生徒には「本当にそれでいいの?」と踏み込んで書いてしまうこともあります。ただ、子ども達が動き出すのを待っているだけではいられなくて、関わっていきたい。中学、高校時代という時間は、人生の中でも大切なひととき。しかもとても短くて限られています。のちに「もっとやっておけば良かった」と後悔してほしくないなと思っていて。菅> 職員会議は中高一緒にやっていますが、それと別に中学部会、高校部会というのも10年くらい前から設けています。中学を担当していた教員が、その後高校で授業を担当することもある。その逆もあるので、教員同士の交流は結構ありますね。高校に進んでうまく中学と高校の6学年が、同じ敷地内で学ぶというのも学園の特徴のひとつです。中学と高校の連携はどのように図られているのでしょうか?「意見を言ってもいいし、言わなくてもいい」と伝えたことをトラップだと思っていた生徒もいました(菅間)

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