morinoat_38
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何も発してなさそうで、実はワクワクしている子どももいる。そういうところにも目を向けていきたいんです。(菅)菅> 体育の授業は、今もあまり変わっていない気がしています。昔から「○○ができない=ダメ」という考え方はなく、見学するのも学びだから、そこに居るだけでもいいという考え方でしたから。でも私自身のことを言うと、昔は元気のいい子たちの反応だけで、いい授業だと判断していたかもしれない、と思うようになりましたね。何も発してなさそうだけど、実はワクワクして参加している子はいて、今はそういう生徒にこそ、目を向けていきたいと思う様になりました。菅> マット運動の授業は全員の身体と向き合ってから終わるというのをずっと心がけているのですが、この歳になって、この体格になったら補助で身体に触っても拒まれることはなくなってきましたね。若い頃は、「な、なんだよ」みたいな感じで拒まれることもありました。私自身の緊張が伝わっていたのだと思います。ただ、最近は身体が硬直しているというか、緩むまでに時間がかかる生徒が増えたように感じます。補助じゃなく「包助」、包み込むような気持ちで接すると安心する子が多いですね。身体を緩ませるためには、自分で自分菅8菅間> 僕が来た頃は教員が面白いと思う授業をして、その面白さで生徒を惹きつけるという感じでしたね。逆に言うと、面白くない授業には生徒たちも消極的な傾向がありました。その反応がストレートに出るので、面白い授業をつくりたかったからすごく勉強になったし、若い頃に経験できたことは良かったと思います。ただ、「面白い」「面白くない」をどう決めるのか? という問題はありました。キャラクターの強い教員の授業には生徒が集まるけど、地味だけど、継続的に参加していると魅力が伝わるような授業をしている教員の授業は、人気がない状況があったときに、面白さをどう決めるのか? ということです。面白さを消費するような状況は、教員にとってもしんどいですしね。当時はまだ開校当初の祝祭感があり、みんな若かったことで乗り切っていましたが、その勢いのまま続けることは難しいだろうとも思い、職員会議で色々と発言したり、アクションを起こしたりもしてきました。校長をやろうと思ったのも、その延長ですね。菅間> 言葉遊びではないのですが「変わらないために変わってきた」ということだと考えています。点数序列や管理主義に対するオルタナティブとしてスタートし、その理念を具現化するために、変わるべきところは変わってきた。かつては、授業への参加すらも生徒の自主性に任せるという雰囲気もありましたが、これだと連続的な授業づくりが難しくなります。ともすれば、1話完結のTVドラマみたいになりかねない。そういう意味では、この20年くらいは継続的・安定的な授業ができているのは大きいと思います。以前は「授業参加を強制するのは良くない」という声もありましたが、そう言ってしまうと学校という形は成立しなくお2人とも、学園に来て30年以上が経過したとのこと。その間に変わったことはありますか? 逆に変わらないところも教えてください。菅間> 誰も取りこぼさない、あまねく学習権を保障する、というのが以前よりもさらに共有されてきているとは感じます。昔から、不登校の生徒がいても、その生徒を意識の外に置いてしまうような教員はいませんでしたが、「学校に来るように働きかけるのは、あるなってしまう。だって、クラス分けも担任も、ある意味強制ですからね。問題は「強制の質」です。種の強制なのでは?」という考え方もありました。でも、今はその子の学習権を保障することが大切だという考え方が共有されています。「生徒は学びたがっている」というのは創立時の教頭だった松井幹夫さんの言葉です。ひとりで学べるのなら学校はいらないわけで、僕は学校という場は“良い巻き込み効果の場”だと思っています。自分で自分の身体を受け入れる——。それが“学べる身体”をつくることにつながっていく(菅)

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