morinoat_37
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すね。当時はそんな捉え方をしていなかったけど、結果として今のところそういう感じになっています。10新井(教員):もちろん、少し時間を置いて進学するのも悪くありません。しかし日本の社会の多くの場所、とくに職業に関わる場で、人を年齢で見る文化がある以上、学校としては安易に「色んな経験をしてから大学に行くのも悪くないよ」と、勧めにくい部分は正直ありますね。佐野(高2):大学の授業が、自由の森に似ているという話もありましたが、それは生徒と教員でつくっていくような授業ということなのですか?佐藤教授:一般的に、大教室の授業と、少人数のゼミという2種類がありますが、それぞれまったく違うものですね。大教室の授業では教員と学生でつくっていくという進め方は、多くの場合難しいというのが現状です。学生も多いですし、そういう進め方に慣れていない学生もいるので。逆にゼミの方は、一緒に作っていかないと進まないもの。先ほど私の体験としてお話しましたが、みんなで協力して、どういうことを追求していくのか、組み立てていくものです。まったく雰囲気は違うと思います。斎藤(卒業生):正直、授業を受ける側の学生の温度差も結構感じますよ。卒業単位のために授業を「受けなきゃいけないから」という感覚の人と、何かを学ぼうとしてその場に来ている人では雰囲気がまったく違います。新井(教員):そういうところで、「本当に学びたい」学生が、大学をイヤになっちゃうということもあるみたいですね。でも、簡単にそこだけを切り取って「大学ってこんなもんだ」と結論づけてしまうと、手にできたはずの学びをこぼしてしまうこともある。斎藤(卒業生):そうですね。今の環境の中で感じるのは、問いを持った時、投げかければ応えてくれる教員や友人たちがいる自由の森という場を経験したことは良かったな、ということ。もちろん、そういう環境ではない場所から来た人でも、好奇心を強く持って、積極的に関わっている人もいますけどね。佐藤教授:私はそういう姿勢を「学びに向かっていける体」という呼び方をしています。自分で「これは何だろう? どういうことだろう?」と問いを見つけられるような感覚ですが、残念ながらそうなっていない人が圧倒的に多い。ほとんどの高校では、与えられた課題をこなすことは求められても、自分で課題を見つけることは求められないので無理のないことではありますが。「自由とは必然性の洞察だ」という有名な言葉があります。詳しくは述べませんが、今目の前の現実はどうなっていて、どう働きかければいいかが分かることが自由だという意味ですが、そういう「学びに向かっていける体」になっている人が、自由の森の出身者は多いように感じていますよ。新井(教員):社会から少し離れて世界を見渡す「学び合う文化を保存している場」、「学びを遊ぶ場」。そして、その場で存分に学びを深めるために欠かせない「学びに向かっていける体」。佐藤さんから、大学を語る上で欠かせないキーワードをいくつもいただきました。私自身も、大学で過ごす時間を経て、さまざまな視点で物事を捉える大切さを実感したひとりです。それは、専門性を深めていくことと同時に、高校の頃から考えてきたことを、もう一度捉え直したり、想像もしていなかったことにチャレンジしたりする時間でした。その時間は、今も「学び」がそばにある、豊かな生き方を補ってくれているのではないかと思います。今日はありがとうございました。目の前の現実を見つめ、「これは何だろう? どういうことだろう?」と問いを見つけられるような感覚を掴んでいくために学びに向かって行ける体になる

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