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※1 吉野剛弘『大正前期における旧制高等学校入試 : 入学試験をめぐる議論と入試制度改革』慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要 2001年※2 文部省学校教育局長通知『新学校制度実施準備の案内』1947年※3 岩田一正『1966 年から 1980 年までの教育言説の相克―高校入試を中心として―』成城大学 2019年※4 1963(昭和38)年の「公立高等学校入学者選抜要項」(初等中等局長通知)において、「高等学校の教育課程を履修できる見込みのない者をも入学させることは適当ではない」   とした上で、「高等学校の入学者の選抜は、……高等学校教育を受けるに足る資質と能力を判定して行うものとする」とする考え方。 まず、少し小難しいですが、日本の中等教育における受験競争の成り立ちの話をしましょう。その発端は、実はかなり古く、大正時代にはすでに社会問題として論じられていました。当時は「国家のエリートを選抜する」という観点から必然視され、実社会に出たときの「生存競争の準備練習」という擁護論まであったといいます(※1)。 戦後、1947年に発足した新制高等学校においては「中学校修了後、更に学校教育を継続しようとする者を全部収容することを理想とする」ものであり、「希望する者全部を収容するに足るように将来拡充していくべき」とする「希望者主義」が唱えられました(※2)。入学試験は、志願者が定員を超過した場合にのみ実施する「例外的措置」だったのです。 「内申書」という制度も、本来は日常の学習到達を評価するものとして、受験競争を緩和すると考えられていました。「従属的なものだった内申書を全面的にとりあげ、それに伴って学科試験科目を減らす」「内申書の重視がうまくいくかどうかが、高校入試改善のカギ」などと、かつては肯定的な議論も見られます(※3)。 ところが1960 年代になると、進学率の上昇と第一次ベビーブーマーの進学期などが重なり、入試が激化します。1963年には希望者主義から「適格者主義」(※4)へと変容。偏差値による学校の序列化も進みました。テストのための勉強が学びだと思わされる状況が、今日に至るまで続いています。さらに、内申書によって管理教育を強化する一面すら生じています。 こうした社会背景のもと、競争原理を排した学校として1985年に誕生した自由の森学園は、入学試験にどのように取り組み、現在どのような姿をしているのでしょうか。数名の教員の皆さんに伺いました。7かつては例外的措置だった日本の高校入試

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