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西に研けさん しん8「みんなにとって」がどこかにあれば、議論は深まるはず。「論破力」ってさ、どうかと思うのよね。枠組みから決めたいって気持ちは良く分かる。古こ賀がなつき哲学者1957年、鹿児島県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科修士課程終了。京都精華大学、和光大学を経て現在、東京医科大学教授。『学びのきほん しあわせの哲学』(NHK出版)など、著書多数。社会科教員。新卒採用で2021年より入職。高校2年のクラスで副担任を担当。生徒と教員、両方の視点から課題を見つめる。古賀:こうして議論らしい議論ができないまま対話不能な社会がやってくるのではないかと、そんな不安も抱えています。今日は教育現場や社会がこの現代的な課題をどうとらえていけばいいのか、ヒントをいただきたいと思います。西:「傷つかなくていい場所で傷ついているから面倒を避ける」というのは合点がいきます。苦しいと、自分の価値観を育てたり作り直すのは難しい。でも、自分の感受性を受け入れることはできると思うんです。人の感受性って、意識を越えて肌感覚で好き嫌いがやってくるじゃないですか。そこをあえて言葉にして掘り下げてみる。対話のなかで自分と相手の感受性の違いを認めるところから一歩進んで、なぜ違うのかを言葉で交換すると、とても面白いです。他の人にも通じる根拠が見えてきたり、自分の思い込みだったと気づくこともある。自分の中で強く信じさせているものの正体に気づくこともあります。後藤:「グラデーション」というお話がありましたが、自然科学にもそういう側面があって、「ハッキリ分からないから認めない」という世界ではないんです。「こんなふうに分かってきた」「ここまでは分かったけど、ここからはグレーだよ」と、お互いが分からないことを丁寧に話せたら歩み寄れるかもしれない。西:それは重要なポイントですね。受験だと正しいか正しくないかの二択になりますが、科学はそうじゃない。コロナ禍でのマスクやワクチンの有効性や安全性でも、それぞれの専門家はいろんな論文を引きあいにして異なる見解を発信しています。だから「なにが・だれが正しいのか」と考えるのではなく、信頼性が高く共有できる部分と、専門家でも見解が分かれるグレーな部分とを、ハッキリ区別して考える姿勢が大事です。社会生活の場面でも、白黒が決まらず人の感度によって分かれる場合には、分かれることを認めたうえで、どうやって共存できるかを考える必要があると思います。古賀:あの、ちょっと遠回りな話をしますね。私の家の西側のお宅って毎週金曜日に宴会するんですよ。ちょっとにぎやかなんですけど、家族同士のつきあいがあるから「今日もやっているね」で済むんです。そんな中、最近北側に小さなお子さんがいる家が引っ越してきました。その家の子が元気で、昼夜を問わず大声が聞こえる。面識がないせいか、こちらは「うるさいな」と感じてしまうんです。クラス内の関係性も似たところがあって、生徒同士でもさまざまな距離感があるように思います。そうした中で「面倒な作業」と思ってしまいがちな関わり合いの土壌をつくるにはどんなことが必要でしょうか。西:一緒に生きようという気持ちを醸成できるかどうか。「それなりに共有できるところ」と「感度が分かれるところ」を認めあって、お互いがどんな形なら一緒にいられるかを探るしかないんだと思うんです。物事のグラデーションを共有する一人ひとりの物語に耳を傾ける

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