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吉田 ゆか子さん〈8期生〉1976年東京都生まれ。自由の森学園高等学校卒業後、国際基督教大学を経て筑波大学大学院人文社会科学研究科修了。マーケティング関連の企業に勤務ののち、筑波大学大学院博士課程にてインドネシア・バリ島の仮面劇トペンの研究で博士号を取得。その後、国立民族学博物館の機関研究員を経て、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所に入所。現在、准教授。著書に『バリ島仮面舞踊劇の人類学―人とモノの織りなす芸能』(風響社)がある。「よし行こう!」と。現地で音楽を聴いたり、踊りを観て過ごしたり、結果として大満足の2週間でした。 ご一緒した寮監さんは、のちにバリの方と結婚。その方の実家がある村は、その後、私のフィールドワークの拠点になりました。今思うといろいろと縁の深い旅行でしたね。 とはいえ、スムーズに今の仕事に就いた訳ではありません。高校卒業後、進学した大学での専攻は数学。大学院ではインドネシアの地域研究を専攻していましたが、研究者になろうとは思っていなくて、卒業後はマーケティング調査の会社に就職しました。しかし、自分が設定したテーマでもない、「ただ、たまたま降ってきたものを調べる」という仕事は、私には向いていなかった。改めて、「またバリに行きたい」という思いが強くなり、博士課程に戻ることにしました。祝うほうが多かったんです。そしてその暦では、3回を過ぎると何回目の誕生日か数えなくなるとか。ちなみに、1年が210日だと誕生日は毎年同じ曜日になるので、ほとんどのバリの人たちは、自分が何曜日生まれかは知っています。私たちが「何曜日生まれなの?」と聞かれても、分かる人は少ないですよね。自分の当たり前が、誰しもにとって当たり前だと思うべきではないんです。 文化人類学では、どっぷり現地の生活に浸かって過ごすフィールドワークという手法をとって研究を進めていくのですが、その中ではいくつもこのような常識を解体されるような経験をします。その都度、思い込みで生きている自分を痛感するものでもあるのですが、とても爽快でもあります。があります。日本だと、こんなことに出会えるキッカケは限られていますよね。そういう経験があると、学生たちも変わってくるのかなと思い、どう関わり合いを作るか考えているところです。 現在、日本社会では“自分”であることを強く求められているように感じます。就職活動の自己分析なども代表例だと思いますが、強固な自己が求められる。そんなにも自分を、どこまでも見なくてよいのではないでしょうか。 皮膚に囲われた「私」ではなく、関係性の中にいる「私」の中に自己を見いだす——。 「トペン」に惹かれたのは、そういう“西洋近代的な自己”を問い直すことにつながるからかもしれません。55「当たり前」を解体されるような、痛くて爽快な経験常識と思い込みは紙一重 かつてバリで仲良くなった人に年齢を尋ねたら、すぐに思い出せずひねり出すように「20歳、かな」と答えてくれたことがありました。その時は「年齢を意識しないで生活できるなんて、バリはなんてのんびりした所なんだ」と思ったのですが、それは私の思い込みだった。 実はバリには複数の暦があって、当時、誕生日は1年が210日という暦で一人ひとりの宇宙 大学で学生と触れていると、東南アジアに対する視線が固定化されている人が多いのを感じます。どこかで「助けてあげなければいけない」存在だと考えているというか。 実際にバリの人々にインタビューしていると、通りがかりのお爺さんに話を聞いても、その人なりの世界というか、宇宙みたいなものがあって、極端な話、異なる宇宙に触れたような感触

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