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教員自身もいかに作品と向き合っているかが問われる授業空間99ます」と土方真知さんは話します。 土方さんは学園の卒業生。他校での教員を経て、昨年から自由の森の教壇に立っている土方さんにとっては、この授業の進め方は懐かしくも大変なことが多いようです。 「前に勤めていた学校の『国語』では、どこかよそから持ってきたものを披露する感じで、私自身が問われるような感覚はありませんでした。でも、この学校の『日本語』では“どう読んだのか?”“どう作品と向き合ったのか?”と生徒に問う訳ですから、同時に私自身がどう作品と向き合ったのかも問われます。自分に語れるものがないとなにも始まらないんです」(土方さん)。 そう語る土方さんに、服部さんも「授業で教員側にも主体を問われるという感覚は、とても分かる」と同意します。「作品と生徒、教員が三つ巴になって授業が進むので、事前に準備していた流れとは違う方向に授業が進むこともあります。そういう時に、教員も自分なりに作品をしっかり捉えていないと、迷走するでしょう。想定外の進行自体は大歓迎なんです。普段はあまり発言しない子のボソッともらした一言で授業が動き出すようなこともあって、それが準備していた流れよりもずっと面白い展開になっていく、なんてことも多いんです」。「この時代に」「この年頃に」今、読んでもらいたいものを 「まとめの課題」は、提出したあとに「もう一度読み返したい」という生徒がいたり、「実は納得がいっていない」と何度も書き直す生徒がいたりします。自分の言葉を本気で探しにいくという行為は、とても時間がかかるようです。 全員のまとめの課題も、もちろん冊子にします。そこで他者の考えに触れることで、自身の読みも何度も問い直されることになります。それは生徒たちにとってスリリングな体験のようで、さらに「去年のものも読ませてほしい」と声をかけられることもあるとか。また、学習発表会などで上の学年で取り扱う作品のまとめの課題を読んで「3年生で、この作品を読むのが楽しみ」と、上の学年の作品を読むことを心待ちにする生徒も少なくないそうです。 「取り上げる作品は、学年に応じてそのタイミングで読むことで、生徒たちが自分に引きつけて受け止められるものを選んでいます」と話すのは山口さん。高校3年生で読む井伏鱒二の『山椒魚(※1)』という作品は、開学当時の30数年前から読み継がれてきたもの。これから卒業を迎える生徒たちが、作品中の山椒魚が出られなくなっている岩屋を学園と重ね合わせるのか、自身の状況に引き寄せて読む生徒が多いようです。 「といっても『毎年やっているものだから』というだけの理由では、生徒たちも本気で作品に向き合ってはくれません。教員の側が読み込んだうえで”面白い”と思っているものでなければ」と山口さんは言葉を続けます。 日本語科の教員は、常にアンテナを張り、多くの文章に目を通したうえで、この時期に読むにふさわしいと確信できる作品を、毎年検証し続けているとのこと。1年で替える作品もあれば、代々取り上げられている作品もある。ずっと残り続けるものは、つまり毎年選ばれている作品でもあるのです。「更新され続ける言葉」自分の立ち位置を確かめる 丹羽さんいわく、授業の進め方も時代の変化とともに更新しているそうです。「『作品から受け止めたことを自分の言葉で綴る』という点に大きな変化はありませんが、開校当時からしばらくの間は、十人十色の読み方があることを『みんな違ってみんないい』という感じで進めていました。しかししばらくすると、本当にそれだけでいいのか? という問いが教員の間で議題となった。そして今は、時代性や自分が置かれた状況に対する批評性を持ち得ているか? という部分にも踏み込んで推敲(すいこう)や、やり取りを重ねるようになったんです。 何かを書けば、そのまま“自分の言葉”になるのではなく、“これは本当に自分の言葉なのか?”“何が自分の言葉なのか?”と問い直す視点を持つこと。その眼差しを持つことで、言語がより“自分のことば”になると、現在の日本語科では捉えています」。※1 山椒魚/広島出身の小説家・井伏鱒二(1898年〜1993年)の短編小説。体が成長したため、棲家にしていた岩屋から出られなくなってしまったと気づいた山椒魚が主人公。自分を悲観しながら、外の生き物を嘲笑したり岩屋に入ってきた生き物と口論したりする、山椒魚の姿をユーモラスに描いた作品。

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