morinoat_26
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12てみたのですが、どうも伝わらない。なるほど、自由の森で当たり前だと思っていたことが通用しない場所に来たんだと思いました。 自分が大切にしていることを、もっと人に伝えたいし、人のことももっと分かりたい。そう思った時、自分を伝えるチャンネルを増やそうと考えたのです。 そこで注目したのが、距離を置き続けてきた英語でした。僕の母語である日本語以外の言葉がどうできているか知ることは、チャンネルを増やすのに最適だと思って、ニュージーランドに留学したのです。 高校在校時、英語は苦手でした。授業が悪かった訳じゃないですよ。自由の森は「なにかができる、できない」ということで人を判断する様な場所ではないのに、できない自分をさらけ出せず、かたくなになっていたんですね。「英語なんてなくても生きていけるし」は、当時の口グセでした。「つながる」に必要なこと 「みんなちがって、みんないい」っていう有名な言葉がありますよね。でも在校当時、クラスをつくろう、行事をつくろうという時には「違っていいだけじゃダメじゃん!」 って思ったんです。つながろうとしていかないと、そこで留まっていたらなにも生まれないなという思いを持ちました。それから「つながり」は、教員になった今もずっと僕の考え方の中心にあるテーマです。どう思う? という問いが難しいという驚き 大学時代、講義中に自分の考えを問われる場面があり、同級生たちが戸惑う姿に遭遇しました。理由は「正解が分からない」とのこと。そこで僕は「どう考えるかなんて正解はないのでは?」と尋ね言語を通して世界に触れる 言葉はその背景にあるものから作られるから、同じ対象について話していても違うことを思い浮かべていることは珍しくありません。「リンゴ」といって日本人が思い描くものは、赤くてまるい果物。「une pomme(リンゴ)」といって、フランス人は緑でまるい果物を想像する。言葉が違うと見えてくる世界も違う。それに、人は主観から逃げられないんです。 留学先では多様な背景を抱える人々と出会いました。でも、その体験を通して「人種や肌の色に関係なく、みんな分かり合える……」 と、美談に集約することは僕は違うと思ったんです。 有色人種に偏見がある人は普通にいるし、遊ばずに課題に打ち込んでいると笑われることもありました。一方でムスリムの人たちの祈りに対する思いを、僕が完全に理解することはできない。もっとも僕はムスリムではないので、「理解で

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