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10 ときとして、課題作品と向き合った結果「今の私には、まだこの作品の読みをうまく言語化できない」と相談にくる生徒もいるとか。そうした場面はたびたびあるようですが、その時は「自分のことばは更新され続けるものだから、今の立っている位置を確かめるためにも言葉にしておこう」と、ひとまず手を動かしてみようと提案することが多いそうです。あとになって書きたいことが変われば、変化の過程も含めて書けばいい。今立っている場所を確かめるためには言葉にしておく必要があり、それがあるからこそ、その先に行けるんだという考え方が表れています。 「ほかの人の意見に触れることで、自分というものは常に変化するかもしれないんです。でもそれができるのは『自分がどこかに立っているから』。その位置を確かめておくからこそ、ほかの人との違いが見えてくる。書くことには、そういう意味もあると思っています」(山口さん)。言葉を通して生徒一人ひとりの人生にも向き合う それぞれの生徒が“イマココ”の立ち位置から書いたものに向き合うということは、ときにその生徒の生き方そのものと向き合うことにもなります。それぞれに異なる“自分のことば”で書かれたものにレスポンスするには、その生徒の置かれている状況や考えていることなどにも目を向ける必要があるからです。 特に、時代に対する批評性などにまで踏み込んで“自分のことば”を探っていく作業は、社会や時代を見て、どう生きるかを考えることにならざるを得ません。卒業間際に「日本語科の課題を通して自分のことが少し分かってきた」「世の中をどう見ていくべきか整理ができた」という感想を残す生徒が少なくないといいます。それは日本語の授業が、教科教育を超えて、一人ひとりと対話を重ねる場となっているからでしょう。 「点数序列なしで授業をつくっていこうとすると、こうせざるを得ないというのが正直なところです」と語るのは山口さん。「一斉に感想文を出してもらって、それについての批評を返すだけではテストと変わらなくなってしまいます」と言葉を続けます。まとめの課題で下書きを一度見せてもらうのは、それを避けるためだとか。やり取りを重ねて“自分のことば”を探っていく過程が、生徒たちの生き方や主体性を問い直すことにつながっているようです。 「正直、このやり取りを重ねることには、過酷な部分もあります。でも、得るものは大きいと思いますよ」(山口さん)。思いがけない副産物も 深く言葉と向き合う授業は、そんな狙いとは別の効果も生んでいるようです。大学入試に挑んだ高3や多くの卒業生からは、国語の読解問題や小論文などの試験で高い点数が取れたという声が多く聞かれます。“読む”“書く”ことを数多くこなしていることもありますが、言葉に深い部分で向き合っていることの副産物といえそうです。 「読むことや書くことに慣れているというのもあると思いますが、文章を単なる文字の羅列ではなく、そこに何かがあるはずだという期待を持って読めるということが大きいのではないでしょうか」と丹羽さんは話します。 卒業後、どんな人生を歩むとしても、大半の生徒にとって日本語は長く付き合い続けるもの。世界がグッと広がる10代の中盤から後半にかけて、自分自身や世界を見つめる言葉と深く関わった経験は、その後の生き方をさまざまな形で豊かなものとするきっかけになるのではないでしょうか。山口 大貴2000年、國學院大學文学部日本文学科卒業後、自由の森学園日本語科専任教員。卒業論文のテーマは「現代読者論」。混迷する教育状況の中、自らも迷いながら、日本語科教師としての実践を重ね続けている。土方 真知2009年、自由の森学園高等学校卒業後、立教大学文学部文学科文芸・思想専修に入学。早稲田大学大学院教職研究科を修了後、公立高校で正規教員として5年間働く。2020年より自由の森学園日本語科専任教員。服部 涼平2020年、和歌山大学大学院教育学研究課教育科学コース教育学専攻を修了。修士論文で、主権者教育のあり方について悪戦苦闘したのち、「実践の領域で、もがきたい」と、2020年から自由の森学園日本語科専任教員。丹羽 晶子1986年、東京都立大学人文学部教育学専攻を卒業後、自由の森学園国語科(当時)専任教員。入職当時は開校2年目。模索の続く自由の森学園黎明期の混沌と、計り知れない熱量の中に身を置き体験した世代。

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