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11森岡次郎 さん 学生のいない大学キャンパスというのは、異様な光景です。学校は土地や建物や制度といった無機的なものではなく、多くの生身の人間によって生命力が賦活される、有機的なものであることがよく分かりました。「3密(密閉、密集、密接)を避けましょう」という言葉が流行しましたが、学校教育には、密閉はともかくとして、密集や密接が必要であったことにも気づきました。生徒のいない自由の森では、とくにそれが顕著だったのではないでしょうか。 教えること・学ぶことは、単なる知識の伝達や情報のやりとりではなく、もっとフィジカルな営みです。自由の森学園の学びは、飯能の山奥というロケーション、季節ごとの匂いや気温や湿度、鳥や虫などの生き物の声、また、関わったすべての人がつくり上げてきた「雰囲気」のようなものに支えられているはずです。 多くの人が時間と空間を共有し、会話したり歌ったり一緒に食べたりすることができない状況で、どうすればより良い学びができるのかを考え続けています。余裕のない社会が失っていくもの 社会的には「自粛」や「自衛」などの言葉による、いわゆる「自己責任論」が、より顕在化したと思っています。困っている人や弱い人をみんなで支える、行政が助ける、という発想は「あたり前」ではなくなってしまいました。 また、相互監視の強まりも感じています。スーパーやコンビニで買い物をする際にうっかりマスクを忘れていくと、ほかのお客さんから不審なまなざしで顔を見られます。休校期間中に子どもが公園で遊んでいると、近所で噂になったり、注意されたりする。「自分は我慢しているのに」という気持ちがあるのかも知れませんが、みんなの心に余裕がなくなっていると思います。 東京や大阪などの大都市が感染症に弱いことも明らかになりました。人や資源が一極に集中することは、平時には効率的かも知れませんが、非常時にはとても脆弱です。ここ数十年の日本は、組織を統合して権限を集中する方向に進んできましたが、これを機にできるだけ人やモノを分散して、みんなが小さな組織に所属して、徒歩や自転車で通勤や買い物をするような生活様式になれば良いと思います。 とはいえ、東日本大震災の時にも同じように感じたはずなのに、結局みんなの考え方は変わりませんでした。オンラインの可能性と課題 大学の教員は、比較的自由に出勤の時間を調整できることが多いので、私の生活が大きく変わることはありませんでした。しかし、学会や研究会、講師を担当する予定だった講習会は、ほとんどが中止や延期になりました。新年度の授業や会議はすべてオンライン。画面に話しかける時間がとても多くなっています。 インターネットを使ったオンライン学習には課題が多いのですが、もちろんメリットもあります。空間に縛られずに遠方の人とも簡単に繋がることができるし、時間に縛られずに自分のペースで、いつでも何度でも授業の動画を見ることなどもできる。学校独特の管理や同調の圧力が弱まり、「不登校」問題を解決するきっかけになるかも知れません。大学における授業時間の過剰な管理も崩壊しました。 多くの人がICTのメリットとデメリットを実感できたことはポジティブに捉えています。アナログの良さをデジタルに変換するための試行錯誤は始まったばかりですが、集まらなくてもできることと集まらないとできないことを意識しながら、自由度の高い授業や研究の方法について模索しています。Morioka Jiro7期生大阪府立大学 准教授(教育哲学・教育思想)大阪フィジカルな営みである「学ぶ」ということ

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