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55トフォームが希薄なのです。小さなコミュニティはあるものの、中核であるべき博物館が主体的に関わることがない。これではひとつの業界として成長することはできません。 そんな状況に一石を投じることができれば、という思いを胸に帰国したのですが、公立の博物館で新たなポストを作ることは困難なようです。歴史とは集って残していくものだと思うのですが、その道のりをゼロから作ろうとするのはなかなか難しい。フリーランスの標本士として、博物館の標本づくりに関わらせてもらったり、講演会をさせてもらうくらいが精一杯でした。 今は、ひとまず仕切り直してドイツのボンにある自然史博物館で働いています。公務員という安定した立場なので、必ずしも日本へ帰る必要はないのですが、今後日本の博物館の人たちとつながりをどう維持して、よりよい社会をつくるために関わっていけるかが課題ですね。 ドイツよりも生き物の多様性に富む日本では、博物館という仕組みがもっと大きな役割を果たすことができると思っているんです。ドイツで標本士になる 高3のある時、「ドイツに標本作りを学べる学校があるらしい」と教員から聞き、「卒業後はそこに行くしかない」とドイツに渡り、願書を出しました。言葉もほとんど分からないので、とりあえず高校時代に描きためたスケッチなども一緒に送ってみたら、入学できることに。送ってみるもんです。 標本作りを一から学び、卒業後は7年間ドイツの博物館で標本士として働きました。もともと「骨が好き」という思いだけで突っ走っていましたが、専門知識を得て博物館で働くことを通して、標本士として自然環境の資料を後世に残す、社会的役割を自覚するようになったかと思います。民主的な社会は、検証できる状態で記録を残すことが大切ですからね。 この仕事の面白いところは、いかに動物が生きていた状態を再現できるか工夫すること。鳥なら羽の重なり方で模様が再現できたり、立ち方を解剖学的に正しい姿勢にしたり。研究施設の剥製ならそれだけでいいのですが、博物館に置くものだとやはり人に興味を持ってもらえるように仕上げることも大切です。「今にも動き出しそう!」と思ってもらえたらいいなぁ、と思って作業をしています。あとは、純粋に動物を解剖して「ここはこうなっているんだ」と感じられるのは楽しいですね。その辺は高校時代と変わっていないかもしれません。日本で標本を作りたいと考えたものの 雇用契約の切れ目をきっかけに、「次は日本で仕事をしよう」と考え始めました。しかし日本には標本士という職業はありません。では日本の博物館にある標本はどうやって作られているかというと、学芸員さんやボランティアの方が作るか、外部の剥製師さんなどに発注したもので、博物館に標本専門の技術職を配置する文化がないのです。 もちろん、高い技術を持った学芸員さんやボランティアもいます。しかし、専門スタッフではないので限界がある。ドイツではずいぶん前から使用していない薬品を使い続けていたり、仕事が多すぎて手が回らないというのが現状です。外部の剥製師さんも高齢化が進んでいて時間の問題でしょう。剥製や標本を作る人たちの軸となる、プラッ標本づくりのプラットフォームがない日本の博物館事情現在の職場、ボンの自然史博物館にて。ここで日々さまざまな生き物の標本づくりに没頭している。相川 稔さん〈8期生〉1976年長野県生まれ。自由の森学園高等学校を卒業後、ドイツのボーフム市立高等職業専門学校生物標本科を経て、卒業後は標本士としてヘッセン州立ヴィースバーデン博物館に勤務。2008年に帰国し、フリーランスの標本士として国内の博物館で標本づくりなどに関わったのち、2018年11月からは再びドイツに居を移し、ボン自然史博物館にて標本士として勤務。

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