morinoat_26
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13強い思いがないと引き受けられないと思っていたんです。僕が生徒だったら、「ここで教えたい」という強い思いを持って来た人に教わりたい。自分の中にそういうものが芽生えてくるまで手を出せないと思っていたんです。 最終的には、大学で教職課程の助手をしていた時に「やはり教師として現場に立ちたい。やるなら自由の森でやりたい」という思いが強くなり、英語科の募集に応じたのがきっかけ。こういう大きな決断って、何か「ビビビ」と来るものかと思っていたのですが、ゆっくり積み上がって「やっぱりそうしよう」という感じでした。言葉の裏側にこそ喜びがある 自由の森で教員を始めて1カ月が経ちました。なかなか大変です。まだ慣れないので授業の準備は夜までかかってしまうし、最近は夢の中でもよく授業をしていて嫌な汗をかいて目覚めていますよ。 それでも「改善の余地がたくさんあるんだ」とポジティブに捉える様に努めています。それに、ずっと英語が得意だった人が教えるよりもいいんじゃないかと思っているんです。 世の中では、早くから英語を獲得してグローバル社会で活躍うんぬんなんて話をよく聞きますが、外国語を学ぶ意味ってそういうことでしょうか。言葉は単なるコミュニケーションツールではなくて、文化、思考、習慣とも結びついている。「言葉」の裏側にあるものを見つめることこそが、言語に深く触れることの喜びだと思っています。そして、母語とは異なる言語を学ぶことは、異質な世界を知り、自分の世界を相対化することにもつながります。 僕がこれから授業の場でみんなに届けたいこと、受け取りたいと思っていることはそういうことですね。新井 雄大さん〈21期生〉埼玉県生まれ。自由の森学園高等学校卒業後、和光大学現代人間学部心理教育学科に進学。卒業後、鴻巣市立箕田小学校特別支援学級勤務、早稲田大学大学院日本語教育研究科を経て、実践女子大学の教職課程にて助手を務めたのち、2019年から自由の森学園中学校・高等学校英語科教諭。きる」なんて言ってしまってはいけない。 異文化は確かにあって、少なくとも今の自分とは異なる価値観や宗教観がこの世にはあるんだな、と。それを理解できたフリをする必要はない。「分からないなあ!」というものが自分の中にあることに客観的に気づくことの方が、よっぽど大事にするべきことだと思いました。英語の教師になる前に 帰国後、大学院に入りました。思い立って、英語ではなく日本語教育を専攻したんです。そこで、「自国で日本語を教えたい」という世界各国の人と肩を並べて、外国語としての日本語について考える時間を得ました。この頃僕は、母語ではない「英語」を人に伝える難しさを過剰に感じるようになっていたのですが、その緊張をほぐす時間になったと思います。 実はこの頃から、自由の森の英語科から声をかけていただいていました。でも

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