morinoat_24
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11ことがありません。 どうしようもなかったのですが、短大時代に友人に頼まれてCDのジャケットをデザインした事があり、インディーズとはいえ商品として形にはなっていたので、フリーランスのデザイナーを名乗ることにしました。きちんとデザインの修行をしていたわけではなかったのですが、とにかく食べていかなければならないので、雑誌やフライヤーなどの仕事をもらって、自己流で勉強しながら何とかやっていました。 その頃に、ミュージシャンをしていた友人の小山田君から、ライブで使う映像を作ってほしいと頼まれたのです。映像をつくる 映像作家をしています。この仕事をするきっかけになった音楽関係の映像を作ることが中心でしたが、最近は仕事の幅も広がり、ディレクターという立場で、映像づくりをするチームの監督のようなこともしています。コマーシャルなどの映像を作ることも多いですよ。 自由の森学園卒業後は、都内の美術短大に進学しました。受験前の美術予備校通いは、なかなか大変だったのを覚えています。僕は寮生だったので、飯能の奥地から都内にある予備校まで通っていたわけで。寮母さんには寮と駅の間を送迎してもらったり、遅い時間に特別にお風呂を沸かしてもらったりと、とてもお世話になりました。面接合格率0%から「食べていくために」 短大卒業後、円安のご時世で安く留学できるということで、2年ほどニューヨークに行っていました。そして帰国。「さて、これからどうしようか」というところで、就職がまったくうまくいかなかったんです。受け答えが怪しいのか、挙動不審なのか、実は社会に出てからバイトも含めて面接というものに受かった 川 幸一郎さんTsujikawa KoichiroEYES4生期もりのあとを歩く>39創作物は、それを作った人の「私には世界がこう見えています」というところにつながっている

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